店声仁語−14−(2009.1.〜2010.12.)

店声仁語:目次・・・

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ほほえみ      狩野  誠

いそがしいときに
イライラするときに
くやしいときに
不安なときに

 


私はそっと
私にたずねる
あなたはいま
ほほえんでいますか
    ……と

ほほえみ読本

なかなかほほえめない自分がいます。いそがしいときに、イライラするときに、くやしいときに、不安なときに・・・、顔がひきつって、とてもほほえんでなんていられない自分がいます。でも、そんな自分に気がつかない人がほとんどなんです。自分はほほえんでいるつもりで・・・。

 


井英幸著作本東宝の井英幸社長が 「映画館へは、麻布十番から都電に乗って。」というユニークなタイトルの本を出版された。タイトルからもわかるように、井さんは少年期から50余年麻布十番にお住まいだった。港区立南山小学校、港区立城南中学校の一年先輩、著書によると中学1年ころから都電に乗って日比谷の有楽座、日比谷映画、宝塚劇場、スカラ座、ピカデリー劇場、東劇等々の映画館に通い始めたそうだ。その頃一の橋の停留場からは、4番・・・五反田〜銀座 (1967廃止)、5番・・・目黒〜永代橋 (1967廃止)、8番・・・中目黒〜築地 (1967廃止)、34番・・・渋谷〜金杉橋 (1969廃止)と4系統の都電がはしっていた。また、麻布十番にも「麻布映画劇場」「麻布中央劇場」「麻布日活館」「麻布名画座」と4つの映画館があり、芝園橋には東宝の封切館の芝園館があった時代で、これらの映画館にもけっこう通ったそうだ。当時の映画の題名、出演者、あらすじ、エピソード等が細かに書かれていて、「これも、これも見た、あぁ、そんな感じだった、同じような思いで見ていたんだ」と映画の場面がひとつひとつ懐かしく思い出される。大学時代には1年に400本もの映画を見たこともあるという井さん、あの井さんが麻布十番から都電に乗って「東宝の社長」に・・・、私ももっと映画を見ておけばよかった。  (井英幸著 「映画館へは、麻布十番から都電に乗って。」 角川書店 )  
 

2010.12.9.

 


きみちゃん像きみちゃん像★きみちゃんの背中
 2010.11.22.〜、パティオ十番周辺の街路灯の改修工事が行われています。きみちゃんが出来たのは平成元年2月28日でした。街路灯のすぐ前に建てられたので、きみちゃんの背中は見られませんでした。怪我の功名でしょうか、工事のおかげできみちゃんの背中を見ることが出来ました。22年ぶりにきみちゃんの背中をながしてあげました。台座の後ろも真っ黒に汚れていました。正面から見たきみちゃんも街路灯のない背景がちがった雰囲気に見えますね。街路灯は12月下旬にはまた元通りに完成するようです。
 パティオ十番を造ったとき、1986年ですからもう24年も前ですが、私たちは細かなことにまで役員だけでなく周辺住人も交え、行政、警察、消防等々、何度となく協議を重ねてきました。 そこだけがただ広かった変則の形の道路を、今の多目的ひろば「パティオ十番」に造りあげる様々な行程がそこにありました。街灯のデザインもその1つでした。しかし、今度の工事はどうでしょうか。どんなデザインの街灯になるのか、明るさは変わらないのか、何の説明もない工事のチラシが一枚ポストに入っていました。工事が始まってもご迷惑をおかけしますでもなく、老朽化した街灯を取り替えてやるんだというようなお仕着せの感じがしてなりません。商店街事務所までは事前に連絡が来ていたのかもしれませんが、そこで止まっているとしたら、納涼まつりのゴミ箱と同じですね、何を考えているのか・・・です。せめて工事中の事故もなく、今 までより洒落たデザインで照度が落ちないことを願っています。

2010.11.26.

 


★ 学生時代のクラブのOB会、最先輩から卒業間もないOBまで集まると上と下では親子、孫ほども歳が離れてしまう。前後4期くらいの集まりなら全員名前も顔もわかるし共通の話題でまとまるだろうと、1〜4期の合同同期会を作ったのは、先輩が還暦を迎えた頃だから、もう十年近く前だった。名称はシルバー世代と言うことで「銀の会」、OB総会とは別に年一度の集まりには全国から40名ほどのOBが集まり学生時代を懐かしんでいる。今春の「銀の会」で隣に座った先輩曰く
 「仁よ、今度麻布十番で飲もうよ、銀の会じゃなくて「仁の会」やろうよ」。

酔った席での半分冗談のような話がはずんで、先日、先輩同輩4人が麻布十番に来てくれた。魚可津の二階で学生時代の懐かしい話を酒の肴に、五十年も経ってもう 時効だからと隠れた武勇伝も聞かされて楽しいひとときを過ごした。まさに「朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや。」(有朋自遠方来
不亦楽乎)の心境だった。
 麻布十番のことも、聞かれるままにいろいろ紹介し、特に私が二十数年も関わってきた「赤い靴の女の子、きみちゃん」のことは、ついつい話に力が入って、前稿のゴミ箱の一件などのこの街の恥部のようなことも話したのだが、子どもたちのためのユニセフへのチャリティーのことはみんなが知っていて、帰りに「きみちゃん像」のところまで戻ってチャリティーに協力してくれた。今、こうして「有朋自遠方来
不亦楽乎」と書いていると、あらためてこの言葉の意義を考える

論語、学而第一  
 

子曰、
「学而時習之。
不亦説乎。
有朋自遠方来。
不亦楽乎。
人不知而不慍。

不亦君子乎。」

子曰はく、
「学びて時に之を習ふ。
亦説ばしからずや。
朋有り遠方より来たる。
亦楽しからずや。
人知らずして慍みず。

亦君子ならずや。」と。
 

 この論語の解釈はここに書くこともないだろうが、
「師の教えを学び、常に復習し自分の身につける。なんと喜ばしいことだろう。同じ志をもつ友が遠くからやってきて共に学び語り合う。なんと楽しいことだろう。人が自分を認めてくれなくても 、怒らない不満を持たない。なんと君子らしいことではないか。」  と、理解する。
 今、私流に置き換えれば、「赤い靴の物語を知り、そのあり方を学び続けて、いろいろな人々にめぐり逢えたこと、なんと喜ばしいことだろう。同じ思いの人々が遠くから訪ねてきてきみちゃんのこと、チャリティーのことなど話し合えること。なんと楽しいことだろう。世間に認められようが認められまいが、そんなことは気にせず一層研鑽に励む。それが教養人というものだ。」  となるのだが、凡人はなかなか君子になれず、ゴミ箱の一件のように怒り悩むのである。 「馬耳東風」、「牛に経文」、「蛙の面に水」etc. 言ってもしかたのない輩を相手に 「人不知而不慍 、
不亦君子乎」 とは、文字通り 「犬に論語」 なのだろう。  君子にはなれないなぁ。

2010.10.29.

 


チャリティーひろばチャリティーひろば★ むかしむかし  麻布十番納涼まつりでは、パティオ十番の赤い靴の女の子「きみちゃん像」の傍らには、小さなステージ「チャリティーひろば」が造られ、世界の恵まれない子どもたちのためにチャリティーを呼びかけていました。 チャリティーひろばはなくなりましたが、赤い靴のチャリティーは今も続いて、今春までにユニセフに送られた浄財の累計は1156万円にもなっています。
 ところが、今年は何と、きみちゃんの像の横にはチャリティー箱ではなく、ゴミ箱が三つもおかれていました。抗議したのですが、ここでいいとの返事でした。情けなくて涙が でそうでした。やむなくゴミ箱担当のアルバイトの学生に頼んで、ゴミ箱を移動させてもらいましたが、何を考えているのか・・・。

2010.8.23.

 


★ 北海道小樽の知人のサイト、いつも素敵な写真と詩に感心して見ているのですが、7月1日以来更新されていないのを心配しています。書かれる詩の言葉の中に、日ごとのこころの想いが感じられたりしていたので、どうかしたかな、どこか具合悪いのかなと心配になったのです。同じことを感じた友人がいたようで、「仁、元気か」  「仁さん、大丈夫ですか・・・」。 あっ、そういえばこのコラム、7月どころか6月18日から更新してなかった。ベッドから落っこちたって書いてそれっきりだったかぁ、ご心配をおかけしました。このコラムが更新していないのは、単なるさぼりでした。書こうを思うと内部告発的に商店街への愚痴になりそうで、や〜〜めたって感じが多いのです。商店街のことは久しく書いていないのですが、「仁さんに話すとネットに書かれるからなぁ」と、さもコラムを見ているように言う友人にかぎってパソコンが出来ないんです。てなわけで、このコラムの更新がないのは体調不良ではなく単なる筆無精ですのでご心配なく です。それにしても暑いですね。夏バテしないようにご自愛下さい。

2010.7.21.

 

★ 親友M君がこのコラムを見てメールをくれました。

「店声仁語」見ました。
「いびき」がひどいのは約半世紀前から承知していましたが…、寝相も悪かったとは…。気を付けて下さい。
ベッドを壁際に置いて、壁にくっついて寝たらいい、(^_^)v
幼稚園時代の息子の戯言を思いだしました。
「家で一番寝相が悪いのはお母さんです。僕を真ん中に川の字で寝たのに…朝起きたら、お母さんは僕を乗り越えてお父さんの隣で寝ていました」。父母参観の日の赤面事件でした。(アハハ)

 確かに「いびき」は昔からひどいけれど、寝相が悪くてベッドから落ちたわけではないと思う。それにしても素直な子どもの作文、そんなときもあったんですね。遠い昔の思い出話、そのお母さんが今いないのが寂しい。M君も落ちないようにお気をつけ下さい。お互い「お大事に」が挨拶になる年令かも。アハハ。

2010.6.18.

 


 ベッドから落っこちまった。笑ってごまかそうと思ったけれど、サイドテーブルの角に、もろに眼を打ってしまった。朝起きて外を見ると、車が上下に重なって走っている。人が上下に重なって歩いている。眼球がずれたのかなって、あわてて眼医者に行ってきた。いろいろ検査して、まぁ大丈夫でしょうって、真っ白に眩しい街を見ながら帰ってきた。どうしてベッドから落ちたんだろう、笑ってごまかせ、だ。アハハ

2010.6.17.

 


銀杏の苗★ 大銀杏が伐採されて三ヶ月、通りから少し離れて、建物の裏側に新しく鳥居が造られました。植栽された鳥居の横のスペースに、 5月13日、1mにも満たない小さな銀杏の苗が二本植えられました。鳥居の後ろに造られた石台には新しいお社が建てられ、六月四日に遷座祭が行われるそうです。この小さな銀杏が鎌倉の大銀杏のように元の根株から芽生えたものなのならいいのですが・・・。
 新銀杏稲荷まるっきり伐採しっぱなしでなかっただけよしとしなければならないのでしょうけれど、この建物のサイトを見ると、敷地計画→ランドスケープのページの図面には、あきらかに大銀杏のあった場所にアートを置くようになっています。「土地の記憶をテーマにした高須賀昌志氏作のアート作品を展示する」とかかれた計画図は、大銀杏とお稲荷さんがあった その場所にアート作品を設置するように最初から計画されていたのです。まさか「土地の記憶をテーマ」にしたというアートが、「銀杏の大樹」をテーマに した作品ではないと思いますが、やはりはじめからそのつもりだったのかと思われてなりません。この新しい鳥居もすでに図面に 描かかれていたのでしょうか、それらしい形が
切り倒された銀杏の大木読めます。
 2月24日の大銀杏の無残な切り株を見る限り、この寒い時期に新芽がでるわけもなく、新しく植えられた銀杏の苗木を素直に喜べないのはうがった見方 でしょうか。 この再開発は「三田小山町地区市街地再開発組合」として地域住民の方々が参加して行われているようですから、このことは地域の方々も承知しての計画だったのでしょうか。だとしたら、今さら部外者の私がこんなことを書いてもしかたのないことです ね。
 しかし、何十年何百年も住み続けられる街づくりの、再開発の考え方がどこか間違っているように思われてなりません。 地域を守護してくれた大銀杏を、自然への畏敬の心で祀り護ってきたお稲荷さんが、新しい立派なお社と鳥居を望まれたのでしょうか。 地域住民の皆さんが承知しての伐採だとしたら、こんなこと書いても余計なお世話ですね。

←2月24日の切り株、跡形もなく整地されたその後 新芽が・・・?

2010.5.15.

PS.5月18日、既にアート作品とやらが出来ていました。ご神木を最初から伐採する計画なんて・・・・・・。

 


★ 鎌倉八幡宮の大銀杏が、新しい芽を出し生命力の強さを見せてくれているのはうれしいですね。温かく見守る周囲の大勢の人の努力とこころが大銀杏を蘇らせたのでしょう。一方で、MI不動産、T建設、この大企業の営利優先の商業主義に伐採されてしまった三田小山町の銀杏は悲しいかぎりです。完成間際の高層ビルは、新しく植栽された木々に囲まれ、見た目は豪華ですが、銀杏稲荷として古くから崇められ親しまれていた大銀杏を、三年もの工事期間中何の対策もなく枯れるのを待っていたかのように伐採しておきながら、「イロハモミジをポイントに配置し、シラカシとセンペルセコイヤで構成した新しい都心の杜をつくります」とか、「この邸宅は、杜を創る住まいではなく、杜になる住まいを目指しています」とぬけぬけと広告宣伝する企業の厚かましさ。こんなことはどこにでもあることでしょうけれど、鎌倉の大銀杏のように、自然を守るこころをもっとみんなが持っていればと思うのです。あの大企業の社員にはそんな温かな心がないのでしょうか。定年まで企業のパーツとして動いているだけなのでしょうか。情けないですね。

2010.5.9.

 


赤い靴★赤い靴の女の子「きみちゃん」のチャリティー、平成21年度分として4月22日  40万円をユニセフに送ることがでしました。大勢のみなさまの温かいご支援にこころからお礼申し上げます。
 きみちゃんの像が出来たのは平成元年2月28日でした。人通りの少ない雨の火曜日、誰かがきみちゃんの足もとにおいてくれて18円がチャリティーの始まりでした。一日として途絶えることなく続いたチャリティーは、平成18年には累計1000万になりました。それから、また4年、 今までの累計は1156万円になります。
 横浜山下公園にはじめて赤い靴の女の子の像が出来たのは1979年でした。きみちゃんの生まれ故郷、静岡県日本平の「母子像」、終焉の地、麻布十番の「きみちゃん」は三つ 目の像でした。きみちゃんは母と子の愛の絆の大切さをみなさんに呼びかけ、世界の恵まれない子供たちへのチャリティーをみなさんに呼びかけ続けました。きみちゃんとゆかりのある北海道留寿都村に「母思像」が、小樽運河公園に「赤い靴の親子像」が、昨夏には函館に「赤い靴の少女像」が創られました。明治44年9月 15日、麻布十番の孤児院で一人寂しくなくなったきみちゃんは、今も9歳のまま世界の子供たちのために歩き続けているように思われてなりません。赤い靴のチャリティーはずっと続けていきたい、続けなければならないとあらためて思うこの頃です。
 きみちゃん、ありがとう。そして、大勢のみなさまのご協力にこころからお礼申し上げます。ほんとうにありがとうございます。

2010.4.22.

 

★ 昨日4月1日、こんなメールを頂きました。

北海道目梨郡羅臼町麻布町町議会よりのお願い

はじめまして。
私は北海道知床半島の目梨郡羅臼町麻布町町議会の鷽田と申します。
実はこの度、わが麻布町では地元に残されたアイヌの伝説を元に「青い靴のよっちゃん」像を町役場前に建立いたしました。
そして来る4月15日には1500人の町民全員で除幕式を執り行うことが、この度町議会で満場一致で可決されました。
主賓には松山千春さんと鈴木宗男先生を予定しております。
お忙しいところ誠に恐縮ですが、東京麻布十番のきみちゃん像管理者として山本様にも来賓としてご出席を賜りたいと、
お願い申し上げる次第です。
僭越ながら往復の飛行機、宿泊ホテルをご用意させて頂きます。お忙しいところ誠に恐縮ですが、ご一考頂けますれば幸甚です。
何卒宜しくお願い申し上げます。
 恐れ入りますが、除幕式の詳細はこちらのサイトにてご確認下さい。
 https://greeting.rakuten.co.jp/viewcard/?db=01&card_id=212346&key=5432c9f482faa782e95ea98765d6cee&send=0

      北海道目梨郡羅臼町麻布町町議会 議員 鷽田卯月  1日
麻布町町議会電子書類承認番号:a1457885bn5a

最近は皆さんもすっかり忘れていたと思います、エイプリルフール、友人からのジョークでした。議員の名前「鷽田卯月」、「ウグイス」でなく「ウソ」なんですね。あのヒマ人め、よく考えたなぁと笑ってしまいました。早速「よろこんで出席いたします」と返信しておきました。アハハ。

2010.4.2.

 


★ こんなメールを頂きました。
「はじめまして、小山町の銀杏の記事を読み、あまりのショックでメールさせていただきました。再開発が始まってから、まさか伐りはしないだろうかと、いつも心配しながら様子をうかがっていましたが、本当に伐るなんて信じられません。気分が悪くなるほど、悔しいです。あまりのショックに、メールをせずにはいられませんでした。何をもって開発というのか・・・。」
 多くの方が同じ思いでいながら、どうすることも出来ずに貴重な自然遺産をなくしてしまったのですが、そのことにさえ気がつかない愚かな声も聞こえてきました。
枯れて倒れると危険だからとか、ちゃんとお祓いしてから切ったとか、何を考えているんだぁ〜と怒鳴りたくなるような体制派的な言葉を口にするものが人の上に立っているようでは、先が思いやられますね。前回のコラムの後、鎌倉八幡宮の大銀杏が倒れたことが話題となりました。自然災害で倒れたこの大樹は、何とか再生の方法を考えられたようですが、小山町の銀杏の樹はいわば人災で枯れたようなものです。すぐそばで高層ビルを建築するのですから建物の地下や基礎工事はかなりの深さになり、それが銀杏の樹にどれだけの影響を与えるだろうかは誰もが予想できると思います。ビル竣工時にはしっかりとした外構工事で、銀杏の樹と銀杏稲荷神社はきれいに復興されるはずだとみんなが信じて工事を見守ってきたのではないでしょうか。三年もの工事の間、銀杏の樹が弱り枯れていくのを不動産業者、建設業者は黙って見ていたのでしょうか。枯れたから伐採したのではなく、枯れるのを待っていたように思われてなりません。再開発の名で街は壊れていく、温かな心の通った街がなくなっていく、何か間違っている、あまりにも体制的な考え方、見て見ぬふりの傍観者、銀杏の樹の伐採がいろいろなことをあらためて教えてくれたような気がします。それでも、本当に残念でなりません。後から知って何も出来なかったこと、もしかしてわかっていても何も出来なかったかもしれませんが、自然や物事を大切にする心だけはなくしたくないですね。Aさん、メールありがとうございました。

2010.3.21.

 


小山町の銀杏の大木★ 港区三田小山町、現町名は三田一丁目、大きな再開発が進んで1 20mを超す高層マンションが二棟ほぼ完成しています。久しぶりに近くを通りかかり、「なんてことをするんだ!」と思わず声を出してしまいました。左の写真は工事の始まる四年前(2006.6)のものです。樹齢400年以上と言われる大銀杏は根元に銀杏稲荷大明神(白瀧稲荷神社)をお祀りして、地域のシンボルになっていました。小山町地域は戦災にあわず、戦前からの古い町並みを残していたのが今の再開発につながったのでしょうが、この銀杏の巨木は遠くからも目印になるものでした。もしかしたら小山町地域を戦災から守ってくれたのは、ここにお社を建て銀杏稲荷として大切に見守ってきた地元への巨木の木魂だったのかもしれません。昨日私が目にしたのは、切り倒されきざまれた銀杏の木の残がいでした。作業員に聞くと、「樹に空洞ができ、枯れて傾きかけてた。倒れると危ないので…」とのことでした。「馬鹿な、あんなに樹勢豊かに生い茂っていた巨木が、そんなに簡単に枯れるわけないだろう。枯れたんじゃなくて枯らしたんだ。再開発が地域の守護神を、ご神切り倒された銀杏木を枯らしたんだ」と、何とも情けない思いでした。根回り7、8mはあるだろう巨木の根は、まだしっかりと大地をつかみ生きているように見えてならないのです。1 20mもの高層ビルを建てるのですから深く地下を掘るでしょうし、水脈にも影響を与えるでしょう。しかし、それだけの建築技術があるゼネコンなら一本の樹を生かせないはずはないと思うのです。枯れたのではない、枯らしたのだと思わずにはいられないのです。
 この銀杏の木は白瀧稲荷神社(銀杏稲荷)のご神木で、かつてはすぐ隣にあった権太夫稲荷神社のご神木と寄り添うように二本の銀杏の木があったそうです。権太夫稲荷神社は明治の末に市電開通の際遷座しましたが、銀杏の木は伐採されてしまいました。その時伐採に携わった人々は次々に原因不明の病気や事故で亡くなりました。お稲荷さんのたたりと恐れた地元の人々は 、京都の伏見稲荷神社まで出向きお祓いを受け、その後は不思議と事故もなく平穏無事に過ごしたと言われています。長い間、地元の人々が大切にお守りし育て、ランドマークとして親しまれていた樹木が失われるのは、何とも寂しく情けなく、残念でなりません。その巨大プロジェクトのコンセプトに「 都心のアドレス、都心の杜、都心の芸術、都心の癒し・・・」と書かれているのをみると、「ふざけんじゃないよ!一本の樹木も救えないで…」

2010.2.26.

 


★ 三度目の成人式をとうに過ぎて、心の若さを大切に思いながら、今が青春とこころに呼びかけています。還暦は満年齢だから数え61歳、古稀は数えで祝うから 数え70歳は満69歳。そうすると・・・そうかぁ・・・、心の若さって大切ですよね。
「古稀」の由来は唐の詩聖、杜甫の詩「曲江」 その二からであることはご存じのとうりで、
「・・・  酒債尋常行処有 人生七十古来稀  ・・・」 (酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり)。
小生、酒債はありませんが それでもこの不況ですから「債はちっぴり有り」です。杜甫は1300年も前の人、自身59歳で亡くなっていますから「人生七十」稀だったのでしょうけれど、今の七十歳は高齢者ですが稀ではないですね。現代の杜甫ならどんな詩を書くでしょうか。
「国債は尋常行く処に有り 人生九十古来稀なり」

2010.2.7.

―― 追記 ――

曲江 その二       

杜甫
   
朝 囘 日 日 典 春 衣 朝(ちょう)より回(かえ)りて日日(ひび)春衣(しゅんい)を典(てん)し、
毎 日 江 頭 盡 醉 歸 毎日 江頭(こうとう)に酔(え)ひを尽くして帰る。
酒 債 尋 常 行 處 有 酒債は尋常、行く処に有り。
人 生 七 十 古 來 稀 人生七十 古来稀なり。
穿 花 蛺 蝶 深 深 見 花を穿(うが)つ蛺蝶(きょうちょう)は深深(しんしん)として見え、
點 水 蜻 蜓 款 款 飛 水に点ずる蜻蜓(せいてい)は款款(かんかん)として飛ぶ。
傳 語 風 光 共 流 轉 伝語す 風光、共に流転して、
暫 時 相 賞 莫 相 違 暫時(ざんじ) 相(あい)賞して 相(あい)違(たが)ふこと莫(なか)れ、と。

ホームページ 『小さな資料室』より

 


★ 青春とは 人生のある期間ではなく 心の持ち方をいう 大切にしたい「心の若さ」を・・・        NPO  PTPL HPより

2010.2.5.

 


年賀飾り★ お正月もあっという間に一週間、もう松があけておとそ気分からさめなくては。どこまで続く不景気と嘆いてばかりもいられないのだが、先の見えない景気に在庫を減らしたおかげで店に出来た空間に正月を飾ってみた。小さな小さな鏡餅、古い張り子の招き猫、そして後ろに飾った絵は円山応挙筆「宝船」。古いボール紙の箱に「宝船」円山応挙筆と書かれたこの絵は、私がまだ小学生だったころ、母が京都観光旅行の土産に買ってきてくれたものだから、もう50年以上も前のものなのだが、押し入れの隅にしまわれ一度も箱から出していなかったので少しの傷みもなく、パネルに貼ってみるとそれなりに見られる。絵の左前の文は添えられて年賀飾りいた、三井寺大本山円満院門跡の由来書で、一般に宝船の絵は七福神が描かれているのだが、この応挙の宝船には七福神はなく宝物だけが描かれているのが珍しい。絵の右上の丸印は円字くづしといわれ、福徳円満の円に通じ、世の中なにごとも丸くとに意味も加味され円満院門跡を象徴するものだそうだ。節分の夜 、この宝船を枕の下に敷いて、下記の句(回文、上から読んでも下から読んでも同じ句)を三遍となえると、その一年「福」がおとずれるといういい伝えがあるそうだ。

 「なかきよの とをのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」
   (長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)

 さぁ、皆さんにも「福」がおとずれますように、この句を三遍となえてみませんか。
 店声仁語、今年もよろしくお願い申し上げます。      (宝船 拡大

2010.1.7.

 


虎のイラスト迎春

今年もよろしくお願い申し上げます

2010年 元旦

仁壽 生

 

★ テレビっ子というほどテレビを見るわけではないが、ラジオは車で出かけたとき聞くくらいで普段はほとんど聞かなくなってしまった。19日、TBSラジオ「永六輔の土曜ワイド」、10 時からの「六輔交友録」で松島トモ子さんが赤い靴の女の子「きみちゃん」のお話をして下さった。今月はじめに、松島さんが取材にお見えになり熱心にきみちゃんのことを聞かれていったので、放送のあることは知っていたの だが、それが今日であることをすっかり忘れていた。「山本さんのことラジオで話しているよ」と友人から電話、あっ今日だったのか。それが店にはラジオがない、リビングにもない、あわてて小さな携帯ラジオのスイッチを入れた。
 松島トモ子さんの声 「きみちゃんの像を見守るようにすぐ前の紳士洋品屋さん山本さん、像が出来た日にその前に置かれた18円から始まったチャリティーは20年で1000万をこえ、子供たちの赤い靴ためにユニセフに送られているそうです・・・」。  今、ラジオはマイナーかな、この放送聞いていてチャリティーに少しでもプラスになればいいなぁと、ラジオ関係者に失礼なことを思っていると、何人もの友人からラジオ聞きましたの電話。クールメディアのテレビに押されながらも 、ホットメディアのラジオはまだまだ健在だった。 
 蛇足ですが松島トモ子さんの 「きみちゃんのお話をしながら山本さんは涙ぐんでいました・・・」は間違えですよ。右目がいつも涙目なんです。(*^_^*)  永六輔さん、トモ子さんありがとうございました。

2009.12.19.

 
★ 「十番だより」12月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見   −21−
  赤い靴の女の子「きみちゃん」 −4−

 不自然に広い道幅の道路だったところに、多目的広場「パティオ十番」が出来たのは昭和61年(1986)でした。そのパティオ十番が建設省(現国土交通省)から「手づくり郷土(ふるさと)賞」を受賞、平成元年には麻布十番で亡くなった薄幸の少女を偲び、母子の愛の絆の大切さを訴えて「赤い靴の女の子・きみちゃん」の像が創られました。
 きみちゃんの足もとに置かれた十八円から始まったチャリティーは、二十年間途絶えることなく続けられ、世界の恵まれない子どもたちのために役立っています。きみちゃんのお話と子どもたちのためのチャリティーは多くの共感を呼んで全国に広まり、今、六つのきみちゃん像が子どもたちに温かな愛を呼びかけています。その六つの像をご紹介します。
それぞれに優しいまなざしのきみちゃんがとても印象的です。みなさんも是非一度訪ねてみてはいかがでしょうか。
 この欄を書き始めて二年、あらためて時間の速さを感じています。時間の速さは一定で、その長さも万人に等しく同じはずですが、歳とともに時間の速さ、長さは一定ではないと感じるこの頃です。加齢とともに、人を通過する時間は速く、短くなっていると思いませんか。わずか三枚のこの原稿、仕事の合間に、あるいは夜遅くに書くのですが、同じ時間が短く感じられるのです。私の一日は24時間ないのかな、一時間が50分しかないのかなと時間の速さ短さを思います。ますます速く短くなる時間を、大切に使いながら健康に過ごせたらと思うこの頃、そろそろこの欄も「お開き」にと思いました。二年間お付き合いいただきありがとうございました。 こころより厚くお礼申し上げます。                  ローリエヤマモト 山本 仁壽

※これは「十番だより」へ寄稿をやめることです。このサイト&店声仁語はまだまだ老骨にむち打って続けますよ。(*^_^*) 

横浜 赤い靴像
「赤い靴はいた女の子」
横浜・山下公園
1979.11.11.
山本正道 作

日本平母子像
「母子像」
静岡・日本平
1986.4.
高橋 剛 作

きみちゃん像
「きみちゃん」
麻布十番
1989.2.28.
佐々木至 作

留寿都きみちゃん像
「母思像」
北海道・留寿都
1991.10.
米坂ヒデノリ 作

小樽親子像
「赤い靴・親子の像」
北海道・小樽
2007.11.23.
ナカムラ アリ 作

函館きみちゃん像
「赤い靴 少女像」
北海道・函館
2009.8.7.
小寺真知子 作

2009.12.3.

 

★ 新PC一週間、まだまだ もたもた戸惑っています。引っ越しは途中まで、古いPCにほとんどのデータを残したままで、使いながら必要なものをその都度移すことにしました。そっくり全部引っ越すとせっかく新しいPCがまた重くなるかなと思いましたが、新PCのメモリは4GB、HDDは1TB、CPUはintel Core 2 Quadですから、素人の遊びで重くなるはずはないのですが・・・。ともあれホームページ、メールも新しいPCからに変更しました。前回、BBSのカウンターが0に戻って直せないと書いたところ、IT関係の仕事をしている友人がcgi datの直し方を伝授してくれました。おかげでBBSも元通りに。メールはOutlook Expressを使っていたのですが、Windows 7にはExpressがありません。Expressのアドレスを移すのに一苦労でした。使い勝手の良さが退化するわけはなく、よかれと思っての新シリーズなのでしょうが、慣れるまで大変かなと思っています。それでも さすがに立ち上がりの早さはびっくりするくらいで、今まで時間を無駄にしていたって感じです。せっかくのマシン、宝の持ち腐れにならないようにせいぜい使おうと思う今日このごろです。

2009.11.19.

 

★ 新しいパソコンが届きました。パソコンも畳も○○も新しい方がいいですね、アハハ。WindowsXPからVistaを飛び越えてセブンですからかなり使い勝手が違うようですが、まぁなんとかなるかな。Officeの方は2003を使っていたので2007とはこれもずいぶんと違っていてとまどっています。古いソフトばかりなので、セブンに対応していないのがほとんど、これもどうやっていくか悩みどころですね。もっか古いPCから引っ越しの最中、いらないものをできるだけ捨ててと思うのですが、なかなか捨てきれないのも家の引っ越しと同じかもしれませんね。このサイトも新しいPCからUPしたらHomePageのカウンターとBBSのカウンターが0に戻ったりです。HomePageのカウンターは 直せましたが、BBSのカウンターはサーバのCgiファイルが書き換えられていて戻せませんでした。まだまだ悩みそうですが、頭の体操、ぼけ防止にはいい玩具だと思っています。

2009.11.16.

 

★ パソコンの耐用年数は税務上は4年だそうだが、物理的耐用年数はどのくらいなのだろうか。もちろん使い方にもよるだろうし、機械だから当たり外れもあるだろうが、ハードディスクは 2年もすると信頼出来なくなってくる。パーツの交換で寿命を延ばしても8年くらいかなという人もいれば、「速度的な寿命」とか新しいOSに対応しないという寿命を考えれば、パソコンの寿命は半年?そんな人もいるだろう。速度を気にしないわけではないが、私が現在使っているPCは2003年製、WindowsXP。素人としてはかなりハードに使っているので耐久年数はとっくに越えていると思う。パソコンWord、EXcel、FrontPage、PhotoShop、Illustrator、Acrobat、Flash Player、Flash Marker、Next FTP、etc.etc.使いこなすとまでは言わないがそこそこ使っている。何度かダウン寸前のマシンをだましだまし使って、データは外付けのHD にとってきたのだが、そろそろ限界、買い換えと思ったころWindows Vistaの評判が悪いし景気も最悪。 Windows7が出るまでガマンして、決めようかと思うと、Office2007がそろそろOffice2010になるんじゃないかと言われる。どこまで待ってもきりがないと、やっと先日新しいマシンを発注した。NEC valueSTAR G タイプL(S)、いろいろ注文をつけてカスタマイズPC製作中。届くのが楽しみだが難読なマニュアル本がまた苦痛になるかも。口の悪いPC仲間いわく「最後のPCかな」。理解力が落ちて新しいスキルについて行けなくなっている今日この頃、ほんとうに最後のマシンになるかもしれない年齢ではあるが、「90才のホームページ」なるサイトを見ると、まだまだこれからと思わないわけでもない。完成日が待ち遠しい。

2009.11.9.

 
★ 「十番だより」11月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見   −20−
  赤い靴の女の子「きみちゃん」 −3−

小樽親子像 ところが、赤い靴の女の子は異人さんに連れられていかなかったのです。
 母かよは、死ぬまできみちゃんはヒュエット夫妻とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていました。しかし、意外な事実がわかったのです。きみちゃんは船に乗らなかったのです。
 ヒュエット夫妻が任務を終え帰国しようとしたとき、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれた結核に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京のメソジスト系の教会の孤児院に預けられたのです。薬石の効無く一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じたのは、明治44年(1911)9月15日の夜でした。
 きみちゃんが亡くなった孤児院、それは、明治10年(1877)から大正12年(1923)まで麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院でした。今、十番稲荷神社のあるところ、旧永坂町50番地にあったこの孤児院は、女子の孤児を収容する孤女院として「麻布区史」にも書かれています。
 3歳で母かよと別れ、6歳で育ての親ヒュエット夫妻とも別れたきみちゃんは、ただひとり看取る人もいない古い木造の建物の2階の片隅で病魔と闘いつづけました。熱にうなされ、母かよの名を呼んだこともあったでしょう。温かい母の胸にすがりたかったでしょう。それもできないまま、秋の夜、きみちゃんは幸薄い9歳の生涯を閉じたのです。母かよがきみちゃんの幸せを信じて亡くなったであろうことが、ただ救いでした。
 この街、麻布十番に眠ったきみちゃんを思うとき、赤い靴の女の子「きみちゃん」の心安らかなことを祈り、今、私たちの幸せを心からよろこび感謝しなければならないと思います。
 母と子の愛の絆をこの「きみちゃん」の像に託し、皆さまの幸せを祈って、平成元年2月28日(1989)麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てました。

 きみちゃんのお話は、それで終わりませんでした。像が出来たその日の夕方、誰かがきみちゃんの足元に18円を置きました。それがチャリティーの始まりでした。この20年、きみちゃんの足元の貯金箱には1日として途絶えることなく幾らかのお金が入れられています。納涼まつりでは、きみちゃんの傍らにチャリティー広場が作られ、悪役俳優の山本昌平さん、女優の紅理子さん、作曲家の横山太郎さんたちが毎年このチャリティーを手伝い、子ども達へのチャリティーを呼びかけてきました。残念ながら16年間続いていたきみちゃんのチャリティーひろばは、2005年の納涼まつりからなくなりましが、子どもたちのための「赤い靴のチャリティー」は現在も続いています。多くの人々に支えられたチャリティーの輪は、20年間途絶えることなく続き、1円、5円、10円という小さな、けれどもとてもきれいな浄財の積み立ては、毎年世界の恵まれない子ども達のために全額ユニセフに寄付されています。今年3月までに子ども達のためにユニセフに寄付された浄財は総額 1116万円になります。阪神・淡路大震災の義捐金、スマトラ島沖地震の義捐金にも送られています。そして、今日も、途絶えることなく赤い靴のチャリティーは続いています。
 明治35年(1902)生まれのきみちゃんですから、もし、今きみちゃんが生きていたら、もう107歳になっています。明治44年(1911)9月15日、9歳で亡くなったきみちゃんは、今も9歳のまま、私たちの心の中に生き続け、世界の恵まれない子ども達のために歩きつづけています。
 あらためて「赤い靴の女の子きみちゃん」のお話とチャリティーについて書いてみました。世界の恵まれない子どもたちのために、どうか「赤い靴のチャリティー」にご協力下さいますようお願い致します。
 (写真は 2007.11.23.小樽・運河公園にできたきみちゃんの像です。ナカムラ・アリ作 「赤い靴 親子像」 )

2009.10.24.

 
★ 「十番だより」10月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見   −19−
  赤い靴の女の子「きみちゃん」 −2−

きみちゃん像 きみちゃんの像がパティオ十番に出来たのは平成元年2月ですから、もう20年になります。地元に住んでいながらきみちゃんのお話を詳しく知らなかったり忘れてしまったという方が意外と多いのではないでしょうか。きみちゃんのリーフレットに書かれた文章も、実は当時広報を担当していた私が書いたものです。短くわかりやすく書こうと思いながら、いつしかきみちゃんの生い立ちに涙しながら書いていたことを昨日のように思い出します。リーフレットの文章をそのまま転載してみます。

 誰もが知っている童謡「赤い靴」、この詩は大正10年(1921)に野口雨情によって書かれ、翌大正11年(1922)に本居長世が作曲したものです。この赤い靴の女の子にモデルのあることが明らかになったのは、昭和48年(1973)11月、北海道新聞の夕刊に掲載された、岡そのさんという人の投稿記事がきっかけでした。
 「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」。この記事を当時北海道テレビ記者だった菊地寛さんは5年あまりの歳月をかけて「女の子」の実像を求め、義妹である岡そのさんの母親の出身地、現在の静岡県静岡市清水区をかわきりに、そのさんの父親の出身地青森県、雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京、ついにはアメリカにまで渡って幻の異人さん、宣教師を捜し、「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めたのです。
 女の子の名は「岩崎きみ」。明治35年(1902)7月15日、日本平の麓、静岡県旧不二見村(現 静岡市清水区宮加三)で生まれました。きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。かよと鈴木志郎は開拓農場で懸命に働きますが、静岡から呼んだかよの弟「辰蔵」を苛酷な労働の中で亡くし、また、開拓小屋の火事など努力の甲斐なく失意のうちに札幌に引き上げます。 明治40年(1907)のことです。
 鈴木志郎は北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。明治41年(1908)、小樽日報に移った志郎は、石川啄木とも親交を持ったことが琢木の「悲しき玩具」に書かれています。
  「名は何と言いけむ、姓は鈴木なりき、今はどうして何処にゐるらむ」
 雨情は明治41年(1908)に長女を生後わずか7日で亡くしています。おそらくそんな日常の生活の中でかよは世間話のつれづれに、自分のお腹を痛めた女の子を外人の養女に出したことを話したのでしょう。
  「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」。こんな会話の中で、詩人野口雨情の脳裏に赤い靴の女の子のイメージが刻まれ、「赤い靴」の詩が生まれたのではないでしょうか。雨情は、また夭折した長女を「♪・・・生まれてすぐにこわれてきえた・・・」と童謡「シャボン玉」に詠ったと言われています。
 後年、赤い靴の歌を聞いた母かよは、「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」とつぶやきながら、「♪赤い靴はいてた女の子・・・」とよく歌っていたそうです。その歌声はどこか心からの後悔と悲しみに満ちていたのです。
ところが、赤い靴の女の子は異人さんに連れられていかなかったのです。       つづく

2009.9.30.

 
★ 「十番だより」9月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 18 ─  
  赤い靴の女の子「きみちゃん」 −1−

 「メルヘンの街 麻布十番。赤い靴はいてた女の子は、今、この街に眠っています」、こんな書き出しで「きみちゃん」をはじめて紹介したのは、昭和62年(1987)10月号の「十番だより」でした。当時、「十番だより」の編集を担当していた私は、十番にも「きみちゃんの像」を建てようと毎月のようにきみちゃんのことを記事にしていました。「十番のきみちゃん」と揶揄されながら書き続けること2年、港区の協力を得て「きみちゃんの像」がパティオ十番に出来たのは平成元年(1989)2月28日でした。その日は、雨の降る火曜日、商店の多くが休業で人通りの少ない日でした。夕方、きみちゃんの足もとに置かれていた18円、それが世界の恵まれない子どもたちのためのチャリティーのはじまりでした。それから20年、1円5円10円と小さなお金の累計はこの春1116万円にもなり、ユニセフを通して世界の子どもたちのために役立っています。
 先月、北海道函館市に新しく「きみちゃんの像」が完成除幕されました。六つ目のきみちゃんの像です。はじめての赤い靴の女の子の像は、「♪横浜のはとばから船にのって、異人さんにつれられて行っちゃった」という歌詞のイメージから横浜市の山下公園に建てられました。「赤い靴を愛する市民の会」(代表松永春さん)の苦労が実を結んだのは昭和54年(1979)11月、作者は山本正道さんでした。次いで静岡市日本平に昭和61年(1986)4月、高橋剛さん作の「母子像」が、そして麻布十番の「きみちゃん」は平成元年(1989)2月、佐々木 至さん作です。平成3年(1991)10月には北海道留寿都村の赤い靴公園に米坂ヒデノリさん作の「母思像」が、平成19年(2007)11月、小樽市の運河公園にナカムラアリさん作「赤い靴 親子の像」が建てられました。8月7日に除幕された六つ目のきみちゃんの像は、函館市の西波止場近くの広場に建てられた小寺真知子さん作「赤い靴の少女像」です。それぞれの地に縁あって、親子の愛の絆の深さと大切さを伝え、世界の子どもたちの幸せを願う思いがこめられています。
 また、先月2日にはハート出版から新しいきみちゃんの本が出版されました。小学校中学年以上向きに書かれたドキュメンタル童話、綾野まさる作「赤いくつはいてた女の子」です。この本にはきみちゃんのお話と一緒に麻布十番のチャリティーのこと、私の拙い詩ですが「十八円の詩」も紹介されています。

はじめは 十八円でした

だれかがあたたかな心を 託していきました
愛の心がひろがって 五十八円になったとき
だれかがガラスの器をおきました
一週間たつと 七五五円になっていました
いたずらに十円とって
自転車で逃げた男の子がいました
つぎの日に 二十円おいて
ゴメン といって走っていきました

あたたかな日曜日
親子づれが「きみちゃん」をみていました
女の子が「お母さん 十円」「お父さんも」
愛の輪がひろがって
きみちゃんの目が光って見えました
きみちゃん 君は もう ひとりじゃない
みんなが 君を見つめている
みんなが 君を

乳母車のお母さんが
幸せをかみしめるかのように
赤ちゃんを見ながら
いくらかを置いて行きました
暖かな春の陽のひかりの中で

はじめは 十八円でした

函館きみちゃん像

「赤い靴の少女像」

8月7日完成除幕された函館のきみちゃん

2009.8.29.

 

★ 「引越し蕎麦」という言葉はもう死語なのだろうか。江戸時代に始まったと言われる「引越し蕎麦」は、「おそばに参りましたので、細く長いお付き合いをよろしく」という江戸っ子の洒落からきているそうだ。近所に住んでいても、面識のない人には声をかけにくいという雰囲気がお互いにあるので、ここは新しく転居してきた方から「引越しそば」を片手に一声かけておいた方が、その後の新生活が円満に充実したものになるのではないかと、本来はそのような 意味合いで始まった「引越し蕎麦」は、東京では昭和の初め頃までごく一般に行われていた風習だった。最近では元来の意味も薄れて、引越し当日に家族や手伝いをしてくれた人達と一緒にお蕎麦を食べることが「引越し蕎麦」と言われているとか、今風なの だろうか。近代化されたマンション生活では隣人がどんな人かもわからないことがごく普通のようだが、商店街に新しく開店したお店がそんな感じだとしたら、挨拶がないことに不快感を感じるのは高齢者のひがみ、歳とったせい だろうか。長い間空き店だったビルが改装工事はじめたときは、よかった、どんなお店がオープンするのかと喜び期待しながら見ていたのだが、「工事中ご迷惑をおかけします」のひと言もなく、「新しく開店しました、よろしくお願いします」のひと言も、向こう三軒両隣にさえない新店舗。そんなものか、マニュアル以外のことはやらない、そんなものかと思いながら、それでもオープンの日にはお祝いにと買い物に行ってみたが、挨拶がないくらい だから誰が店長かオーナーかもわからない。売れればいい、流行ればいい、これが現代風の経営だとしたら寂しい限りである。それとも前期高齢者に片足がかかった私の考えが古いのだろうか。いや、そんなことはない、麻布十番は温かな心のふれあう街づくりをしてきたのだから、ごく普通の挨拶ぐらい出来る店、店員マニュアルをもって欲しいと思う今日この頃である。 因みに、一年間工事が止まっていた向かいのビルの責任者は、工事再開にあたって「長い間ご心配をおかけいたしました。また工事が始まりますのでご迷惑をおかけいたしますがよろしく」と挨拶にきていった。「よかったね、気をつけて工事して」と返す言葉、それが近所付き合いではないだろうか。

2009.7.20.

 
一年前のこの欄に、こんな息子との親バカ会話を書いたのですが、その後の報告です。

★連日の暑さ、さっぱりした昼食をと冷や麦を用意した家内、息子に
   「お昼よ〜、早く食べて学校行かないと遅刻するわよ」
   「わかった。で お昼 なに?」
   「暑いから 冷や麦よ、Mさんにお中元で頂いたから」
   「冷や麦とか素麺とか 好きじゃないんだなぁ」
   「しょうがないでしょう まだいっぱいあるわよ」
   「今度さ おそばかうどんにして下さいって言ってよ」
言えるわけないけど、Mさんこのサイト見てるかもしれないから来年に期待して、今日は冷や麦食べて行きなさい。アハハ。

P.S.Mさんから早速メールがきました。
 『おっ!店声仁語が更新されてる!って身を乗り出したら、何!コレ僕のこと?全国サイトに出ちゃって嬉しいな・・・って感 じ。来年から、おそばかうどんにします。悠貴くん、 奥さんに宜しくお伝えください。アハハ。 ところで 「遅バカうどん」 なんてうどんがあったら面白いね。今後も店声仁語楽しみにしています。』 

「おそば か うどん」が「遅バカうどん」?面白いですね。来年は「遅バカうどん」をよろしくお願いします、Mさん。 アハハ。

 そのMさんから昨日お中元が届きました。一年前のコラムを忘れずに、今年は例年の「冷や麦」ではなく、「遅バカうどん」ならぬ「美味しいおそば」がいっぱい でした。 (^_^)v 今日のお昼にさっそくおそばを頂きました。お返しは例年通り「ビール」。景気悪いから発泡酒かな?

2009.7.3.

 
★ 「十番だより」7月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 17 ─  

森光子さん 国民栄誉賞受賞 おめでとうございます 

 私が「十番だより」を編集していた1986〜1996年まで、「好きです十番」というコーナーがありました。毎回著名人にインタビューしたり、原稿をお願いしたりして、読者の皆さまに親しまれ楽しみにされていました。森光子さんが、「放浪記」二千回公演を達成され、今日国民栄誉賞を受賞されることを聞き、「好きです十番」のインタビューに芸術座の楽屋をたずねた時を思い出し、懐かしく「十番だより」のバックナンバーをひもといてみました。
 「放浪記」の初演は1961年、インタビューにうかがったのは1994年11月23日に1200回公演という大記録を達成した何日か後の芸術座の楽屋でした。その時、「回数より34年という年数が大変でした。34才若かったわけですから・・・」とおっしゃっていたのを覚えています。それから更に15年、800回もの回数を加えて2017回、48年間の公演というのは本当に驚きですし、まさに国民栄誉賞にふさわしいことですね。
森光子さん
 「好きです十番」は、1986年9月号が第一回でした。最初のゲストは、文豪谷崎潤一郎夫人の谷崎松子さんでした。続いて、上村香子さん、石井ふく子さん、赤木春恵さん、杉村春子さん、山本学さん、山岡久乃さん、東てる美さん・・・と毎月ビッグなインタビューが続くのですが、もちろん直接訪ねられるわけではありません。大勢の方々に助けられ、紹介されてのコーナーでした。フクヤ化粧品店の藤ア和子さんにはずいぶんと助けていただき、森光子さんも藤崎さんの紹介でした。いつも一緒にインタビューに同行してくれた栗原智山の栗原秀夫さんが健在だったら、あの頃を思い出しながら一杯飲んでいたかもしれませんが・・・。
 健康であることの大切さをあらためて感じながら、森光子さんの受賞をこころからお祝い申し上げます。

←この写真は、平成7年1月号の「十番だより」「好きです十番」です。
「健康であること、身体も心も大切ですね・・・」と話され、「花はいろ、人はこころ」のサインを頂いたこと、昨日のように思い出します。この「好きです十番」のタイトルは杉村春子さんに書いていただいたものです。

2009.7.1.

 
★ 「十番だより」6月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 16 ─  街路樹−2−

ハナミズキ ハナミズキとヤマボウシについて5月号に書きましたが、5月に入ってヤマボウシの白い花が咲いているのに気が付きましたか。「花のように見える総苞片の先端がハナミズキはくぼんでいますが、ヤマボウシの苞(ほう)は先がとがっています」と書きましたが、4月のハナミズキと5月のヤマボウシ、両方の写真を撮ることが出来ましたのであらためてご紹介します。こうして比べて見ると明らかに違うのですが、高い木の上に咲いている白い花(苞)を見ると区別が付かず、いつまでもハナミズキが咲いていると思っていた方も多いのではないでしょうか。木々はよく見ると、花の形が違うように葉の形もまた違いますし、幹の木肌もみな違っていることに気が付くと思います。(写真 右 ハナミズキ、左下 ヤマボウシ)

ヤマボウシ 雑式通り十番会館前辺りには六本のモミジバフウの木が植えられています。もみじの葉のようなフウの木、アメリカフウとも呼ばれ北米から中南米原産の落葉高木です。日本には大正時代に渡来し、街路樹や公園木として植栽されています。同じフウの仲間に台湾から中国南部原産のタイワンフウがあります。タイワンフウは江戸時代中期に渡来し、古くから公園などに植栽されてきました。葉が3つに中裂するのに対し、モミジバフウの葉は長さが12〜18cmと大きく、5〜7裂する違いがあります。フウは漢字では「楓」、音読みすればフウ、訓読みすればカエデです。モミジバフウも秋にはきれいな紅葉を見せてくれます。
 十番通り中央付近にはコブシが植栽されています。コブシは北海道から九州まで広く分布するモクレン科の落葉高木です。3月から5月にかけ白い花を咲かせ、桜より一足先に咲いて春の訪れを告げるため、日本の各地でコプシの開花を農作業の基準とし、別名「田打ザクラ」「種蒔ザクラ」などと呼ばれています。漢字で書くと「辛夷」、冬芽は毛に覆われた厚い鱗片に包まれ、花芽の冬芽は大きく膨らんでいます。花弁は6枚で中心に近い部分は赤味を帯びています。つぼみや果実の形が幼児の挙(こぶし)に似ているのが名前の由来と言われています。
 十番通りに落葉することなく緑を楽しませてくれる街路樹があります。クスノキです。関東以西の暖地に自生し、公園や寺社林によく植栽されるクスノキ科の常緑高木。大きく生長し、神社などで神木として崇められている巨樹も多いようです。常緑樹ですが葉の寿命は1年で、春に新葉がでる頃に前年の葉が落ちる、新緑の美しい常緑樹です。枝や葉に樟脳(しょうのう)の香りがしますが、防虫剤や医薬品などに利用される樟脳はこのクスノキから作られます。
 南山小学校坂下周辺にはカツラが植えられています。カツラは北海道・本州・四国・九州と広く分布する落葉高木です。暖温帯上部にも見られますが、主にブナ林域などの冷温帯の渓流などに生育します。カツラはほぼ日本固有の樹種で、その新緑の葉の美しさから公園や街路樹としてよく見られます。もともと水分の多い肥沃な土地を好み、渓流沿い等によく生えています。ブナ林の渓流を歩くと、時として高さ30mに達する巨木に出会うこともあるそうです。
 ちょっとかけ足でしたが、麻布十番商店街の八種類の街路樹、あらためて街の緑を楽しんでみて下さい。

2009.6.3.

 

★ ゴールデンウイーク、お天気に恵まれ麻布十番にも大勢の人がお見えになりました。歩道のベンチに座ってパティオ十番の木を振り返って見ているお母さん、ベビーカーの赤ちゃんは心地よい風に吹かれすやすや眠っているようでした。手に持った十番だよりを見ながら、ときどきパティオ十番の木々を見ているのは、5月号に書いた街路樹の話しを読んでいるのかなと声をかけてみました。
  「いつも通り過ぎて気が付かなかったんです、十番の街路樹、いろいろな種類があるんですね、ありがとうございました」 
  「こちらこそ拙い文章、熱心にお読みいただいてありがとうございました」。
薫風緑樹、五月の風はどんな薫りをみなさんにお届けするでしょうか。

★ 「十番だより」5月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 15 ─  街路樹−1−

パティオ十番 麻布十番商店街は昭和58年(1983)に東京都モデル商店街の指定を受け、商店街の近代化に取り組みました。緑豊かな街づくりをめざして 昭和61年(1986)には多目的広場「パティオ十番」を完成、平成3年(1991)にはアーケードを撤去し、街路樹を植え、歩道にセラミックタイル、車道に石畳、街路灯も十番らしいデザインのものにと改修を行ってきました。歩道のタイルも岐阜県多治見市の工場を訪ねて、その色や敷き方を見てきました。街路樹もブロックごとに異なった種類の樹を植栽することで、季節毎に異なった趣の緑が楽しめように検討を重ねました。十番通り、雑式通りに植栽された街路樹は、カツラ、クスノキ、コブシ、ヤマボウシ、ハナミズキ、モミジバフウ、ケヤキ、トチノキの八種類、その他一の橋のバス通りにはイチョウ、新一の橋付近にはヤナギ、環三通りにハナミズキが植えられています。 さぁ、どこにどの樹が・・・。街の木々には気もとめることもなく見過ごしている方がほとんどだと思います。今度お買い物の時には街路樹を見ながら歩いてみてください。お車に気をつけて。
 パティオ十番には六本のケヤキの木と両サイドの歩道に四本のトチノキが植栽されています。今新緑のケヤキの木も秋には紅葉、そして落葉をくりかえし二十余年の年輪を重ねているのですね。ケヤキは高さ30mを越えることもある落葉性の高木。本州以南の日本各地、朝鮮 半島・中国各地・台湾等に分布しています。枝はほうき状に広がって美しく、都市公園や街路樹などに広く植栽されています。
 トチノキは、天狗の団扇と呼びたくなるような掌状に分かれた大きな葉です。ヨーロッパのマロニエと同じ仲間なので、そのイメージからか近年、街路樹に植栽されることが多くなった木です。北側(ラ・ボエム側)の 二本と南側(フクヤ化粧品店側)の二本の大きさが極端にちがいます。何故か北側のトチノキは二本とも枯れて今は植え替えられた二代目です。
 ハナミズキは港区の木に指定されている木ですが、原産はアメリカです。明治42年(1909)から数年にわたって、当時の東京市長尾崎行雄がアメリカに桜の苗木を贈りました。ワシントンD.C. ポトマック河畔の桜並木がそれです。その返礼として大正4年(1915)にアメリ街路樹カから東京市に贈られたのがハナミズキです。日米親善の木として、そのときの原木は今も日比谷公園に残っているそうです。
 ヤマボウシはハナミズキと同じミズキ科ヤマボウシ属です。ハナミズキとよく似た花(正確には花ではなく苞)が咲きますが、ヤマボウシは展葉した後に花開くのにくらべ、ハナミズキは開花が先です。また、花のように見える総苞片の先端がハナミズキはくぼんでいますが、ヤマボウシの苞は先がとがっています。和名は「山法師」で、白い総苞が白いずきんをかぶった山法師を連想することから付けられました。秋には赤いイチゴを連想させるような果実ができ、甘くて食べられます。開花時期もハナミズキは4〜5月、ヤマボウシは5〜6月とずれがあり、それだけ長く花を楽しむことが出来ますね。
 今月は四種類の街路樹を紹介してみました。緑豊かな商店街、あらためて木々を見つめてみては。

2009.5.4.

 


りかちゃん★ このサイト「麻布十番未知案内」へのアクセスは一日500〜1000くらいでしょうか、Homeのカウンターは100前後しか動きませんが直接目的のページにアクセスする人がかなりいるようです。Web解析で見ると、3月までのページビューは4000〜5000/日でしたが、何故か4月にはページビュー10000/日以上になっていました。一人5ページ見て下さるとして、3月は800〜1000アクセス、それが4月は2000以上のアクセスという数字になります。まぁ、還暦過ぎのおじさんがコツコツ創っている素人サイトとしてはアクセスの多い方かなとよろこんでいたのですが、今日16:00頃からアクセスが急増、yahoo ニュースからのリンクでした。yahoo ニュースに何が書かれているのかと調べてみると、何とリカちゃん人形がリンクの元でした。横浜開港150周年記念「赤い靴のリカちゃん人形」1000体限定販売のニュースの下に、関連サイトとして「麻布十番未知案内」のきみちゃんのページがリンクしてありました。このサイトにきて下さった方たちが、きみちゃんのチャリティーのことも読んで下さるといいのですがと手前勝手に願っているところです。実は昨日きみちゃんのチャリティーの今年3月まで(平成20年赤い靴度分)33万円をユニセフに送ったところだったのです。きみちゃん像が出来た平成元年から続くこのチャリティーは20年間の累計がこれで1116万円になりました。一円、五円、10円と小さなお金の、しかしとてもきれいなお金の累計1116万円はどんなに貴重なことでしょうか。世界の恵まれない子どもたちのためにユニセフを通して生かされていることを、あらためて大勢の方々に知っていただきたい、そんな思いで yahoo ニュースからのリンクをうれしく見ていました。
 チャリティーへのご協力 ほんとうにありがとうございました。これからもよろしくお願い申し上げます。

2009.4.24.

 
★ 「十番だより」4月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 14 ─  昔 麻布十番にはアーケードがあった

古いアーケードの通り 街の変化についての記憶は意外とあやふやなものだと思いませんか。ついこの間まで営業していたお店が、いつの間にか閉店し別のお店になっていることがあっても、それほど奇異に感じないことがよくあります。以前ここにあったお店、何だったろうと考えてなかなか思い出せないこともよくあります。先月号(3月号)に書いたここ十年余で閉店したお店は大正以前創業の古いお店ばかりでしたが、今日のように変遷のはげしい時代では一年も経たずに閉店するお店も多く、店名を覚える間もなく次の新しいお店が開店するというようなことも多々みられます。一軒また一軒と少しずつ少しずつ変わりながらの、いわば静かな街の変革がある一方で、ある時一度に大きく変わる動的な変革もあります。
 戦後最大の変革は何と言っても平成12年(2000)の地下鉄2路線、南北線、大江戸線の開通だと思います。地下鉄建設までの経緯は後述として、それ以前の大きな変遷のひとつがアーケードの建設と撤去ではないでしょうか。今、麻布十番商店街にアーケードがあったというと驚かれるようですが、商店街のアーケードは東京タワーが完成した翌年、昭和34年(1959)に完成しています。残念ながら商店街全地域ではなく、十番通り雑式通りの一部で、また、車道をまたぐ全蓋のアーケードでもありませんでした。パティオ十番通り完成それでも雨の日の買い物に便利とよろこばれましたが、完成から20年も過ぎた頃からでしょうか、店舗のビル化、高層化がすすむとアーケードの改修や存続が問題になってきました。全国各地の同じような問題を抱えた商店街を見学し、何年にもわたって討論を重ねてきました。最初にアーケードを撤去したのは長野県松本市の商店街だったでしょうか、東京でも人形町商店街に続いて神田すずらん通りの商店街がアーケードを撤去したのです。撤去したばかりの商店街を見学に行くと、今までアーケードで隠されていた二階部分やクーラーの屋外機等々物置小屋を見ているような感じで、撤去に二の足を踏む思いもありました。それでも、雨の日ばかりではない、植栽した緑豊かな街並みと見上げる青空、高層化されるであろう商店街の近代化を進めるためにアーケードの撤去が決定されたのは平成3年(1991)でした。これに先立ち昭和58年(1983)には東京都モデル商店街に指定され、その第一期工事としてパティオ十番が昭和61年(1986)に完成しています。アーケードの撤去はこのモデル商店街指定を受けて商店街近代化への布石となり、アーケード撤去と併せてコンクリートの東電柱の撤去、電線の地下埋設等もすすめられることになりました。こうして商店街近代化の工事は、アーケードを撤去することからはじまり、平成5年(1993)に先ずパティオ通りの近代化工事が完成することになったのです。

(写真右上 1991年ころの十番通り、古いアーケードと東電コンクリート柱と雑線、写真左下 1993年5月パティオ通りモール化完成を祝ってくす玉を割る。)

2009.4.2.

 
★ 「十番だより」3月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 13 ─  老舗 そして変わりゆく商店街

 創業何年以上を老舗と言うのか、或いは、ただ古いから老舗なのか、いろいろ考え方があるかもしれません。戦後、新しく麻布十番に店を構えた、十番では比較的新しいと言われるお店でももう創業65年になるのですから、これまた立派に老舗ですね。そんな意味で、麻布十番にはたくさんの老舗がありますが、創業が大正以前のお店を表にしてみました。(表−1)
 この二十年でも明治、大正創業の老舗29軒が(表−2)、また昭和以降のお店も100軒以上が閉店、転業、廃業、転居しています。寂しいことですが、替わって新しいお店もたくさんオープンしています。現在、麻布十番には300軒余の商店街振興組合加盟店とそれ以外にも組合未加盟の数多くのお店があります。
 時代と共に少なくなったり、なくなっていく業種もあります。私のところは足袋屋として明治44年に創業しましたが、昭和30年頃には紳士洋品店に変わりました。足袋は今、呉服屋に引き継がれていますが、その呉服屋も麻布十番では一軒になってしまいました。呉服に付随していた「半襟屋」「染物屋」「刺繍屋」「仕立屋」「悉皆屋」みんななくなってしまいましたね。 4館あった映画館、「麻布映画劇場(東映)」「麻布中央劇場(洋画専門館)」「麻布日活館」「麻布名画座」もなくなりました。銭湯も十番近辺に「吉野湯」「金春湯」「つるの湯」「一の橋湯」「小山湯」「越の湯(十番温泉)」がありましたが、今は南麻布の「竹の湯」だけです。自転車屋も何軒もあったのですが。肉屋、魚屋はスーパーのテナントに、カメラ屋、乾物屋、油屋、ブリキ屋、糸屋、碁会所、桶屋、ふとん屋、ブロマイド屋、刃物屋、目立屋、小間物屋、袋もの屋・・・。 大工さんもいなくなってしまいましたね。
 新しい業種、お店も出てきました。モバイル、ゲームセンター、レンタルビデオ、お香、学習塾、ペットショップ、ネイルサロン、イタリア、フランス、エスニック等々のレストラン、オープンカフェ、ダイニングバー、ワインバー、カラオケ、ビアレストラン、いろいろな居酒屋、めまぐるしく時代とともに街も変わっていきます。世界恐慌以来の百年に一度の不況といわれる今、麻布十番はまだまだ変わっていくでしょう。
 もうすぐ創業百年、麻布十番では唯一残ったメンズショップのわが家ですが、そろそろ閉め時かなと情けないことを考えています。思い出してみてください、あなたの知っているお店、なくなってしまったお店、いくつ思い出せるでしょうか。
 “Change! Yes We Can.”の言葉が遠くに聞こえる今日この頃です。

[表-1] 現在も営業中の大正時代以前創業の老舗
 

[表-2] 近年閉店(移転)した大正以前創業の老舗
     (業歴年は、もし営業中ならばの年数です)

 

屋 号

創業年 業歴年 現在業種
1 更科堀井 寛政 元年 220 そば
  永坂更科 布屋太兵衛
  麻布永坂 更科本店
4 I.B.KAN 文政 元年 191 理容
5 酒井陶器店 文政 8年 184 陶器
6 柴田石材店 文政 8年 184 石材
7 中村屋 嘉永 元年 165 家庭用品
8 永井薬局 嘉永 3年 163
9 豆源 慶応 元年 144 豆菓子
10 コバヤシ玩具店 慶応  3年 142 玩具
11 カニエ 明治  2年 140 日用品
12 溜屋質店 明治  3年 139
13 近江屋家具店 明治10年 132 家具
14 きものアートすなが 明治20年 122 呉服
15 紀ノ国屋 明治33年 109 食料品
16 栗原智山 明治35年 107 仏具
17 ニシモト洋品店 明治42年 100 洋品
18 ツルヤ酒店 明治42年 100
19 浪花屋 明治42年 100 たい焼き
20 ローリエヤマモト 明治44年 98 紳士洋品
21 紀文堂 明治44年 98 人形焼
22 大黒屋履物店 大正 元年 97 履物
23 オバタ薬局 大正11年 87
24 共楽社 大正12年 86 CD・MD




*参考資料  稲垣利吉 著 「十番わがふるさと」










 

 

 

 

 

 

 

 

  屋 号 創業年 業歴年 創業業種
1 一力寿司  寛永17年 369 鰹節
2 山市 天保 2年 178
3 松重 安政 3年 153 果物
4 石崎寝具店 文久  3年 146 綿
5 村野畳店 文久 元年 148
6 川口屋 文久 3年 146 染物
7 大坂屋 慶応 元年 144
8 広田屋 明治 元年 141 コンニャク
9 鈴木洋品店 明治  3年 139 足袋
10 ヤマナカヤ 明治15年 127 果物
11 おばなや 明治34年 108 呉服
12 山水舎 明治34年 108 ラムネ
13 篠崎製菓 明治38年 104
14 熊田 明治38年 104 ブリキ
15 エチゴヤ 明治39年 103 足袋
16 武蔵屋 明治39年 103 呉服
17 高梨履物店 明治40年 102 履物
18 甲陽堂 明治44年 98 印章文具
19 信交堂 大正 元年 97 時計
20 小野 大正  4年 94 ござ
21 岩田園 大正  6年 92 お茶
22 大むら 大正  6年 92 そば
23 八百徳 大正 6年 92 青果
24 和田屋 大正  9年 89 食堂
25 江波屋 大正10年 88 洋服
26 クラウン 大正10年 88 半襟
27 白水堂 大正11年 87 カステラ
28 つるや 大正12年 86 洋装
29 笹間書店 大正13年 85 古本

2009.3.8.

 


★ めずらしく1階の店に下りてきた息子曰く

  「おやじ、布団カバーがやぶれっちゃったんだ。縫ってくれる」
  「おいおい、そういう仕事ってお母さんに頼むんじゃないのか」
  「まぁ、世間一般にはそうだけれど、おやじ、ミシン使えるじゃん。だから、おやじに頼む」

見ると布団カバーが縫い目にそって1mほど裂けるように切れている。

  「ここまで切れる前に気が付かなかったのか。まっすぐ縫うだけだから、教えてやるから自分で縫ってみるか」
  「今日はいいよ、見ているだけで」

私もミシンは習ったわけではなく、母や姉が使っていたのを見て何となくいたずらしながら覚えたのだが、今の若い女性たちはミシンを使えるのだろうか。コットンパンツやジーパンの丈上げを頼みにくる女性が来るたびに、ミシンが使えないのか、ミシンを持っていないのか、どっちかなぁと思う。ミシンどころかボタンもつけられないかもしれませんね。それでも困らない便利な世の中なのかもしれませんが、ミシンに限らず炊事洗濯etc. etc.女性の仕事と思ってはいけない時代なのかもしれませんね。えっ、あ、まぁ、弁解するわけではありませんが、家の奥さんちゃんとやっていますよ。たまたま今日は 、ちょっと忙しかったようで・・・。(*^・^*)

2009.2.22.

 
★ 「十番だより」2月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 12 ─  賢崇寺と二・二六事件

賢崇寺 パティオ十番から一本松に向かって少し行くと、左側に賢崇寺の石門、本堂につづく石畳の坂道がある。側道の階段はゆるやかな上りやすい歩幅で114段、昔は坂道はなく今より急な84段の狭い石段が緑の木陰につつまれるように上まで続いていた。曹洞宗 興国山 賢崇寺、佐賀鍋島藩歴代藩主の菩提寺として寛永12年(1635)に創建されたこの名刹は、昭和20年4月15日の空襲で本堂、庫裏、開山堂、霊廟鐘、位牌堂、土蔵の一切が焼失した。戦後まもないころ、夏になるとここは蝉取りの網を持った子どもたちがミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクホウシを追いかけ、カブトムシ、クワガタムシ、玉虫もいた。昭和47年4月に本堂が、50年4月には鐘楼も再建され、石段は坂道にかわったが、閑静な境内には五輪塔の形式に統一された鍋島家歴代の墓が並び往時を偲ばせている。閑叟公(かんそうこう)の名で知られる第十代藩主直正は、実子に種痘を行いその普及に努め、西洋医学の発展に貢献、明治維新の原動力のひとりとして活躍した人だ。今、閑叟公の墓は郷里佐賀に移され、墓前に奉納されていた明治の元勲大隈重信、大久保利通等からの灯籠がかたすみに残されているのが寂しい。
 境内には有名人の墓も多く、象徴詩人として日本文学の発展に貢献した蒲原有明、日本の動物文学の第一人者で、イリオモテヤマネコの発見で知られる作家の戸川幸夫、国学者久米邦武、洋画家久米桂一郎、作家宮地嘉六、「真白き富士の嶺」の哀歌で知られる七ヶ浜沖ボート転覆事故犠牲者の逗子開成中学生徒の墓もある。また、二・二六事件に関係した二十二士の墓もある。
二二六事件墓誌 昭和11年2月26日、雪の未明に起きた二・二六事件は、祖国の将来を憂い決起して軍閥に挑戦した青年将校達のクーデターだが、2日後の28日に「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅命令が下され、戒厳司令部は次のような「兵に告ぐ」というビラを撒く。
  『今からでも遅くないから原隊へ帰れ。
   抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する。
   お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ。』
決起将校たちの「昭和維新」の夢は断たれ、事件後、2名が自決、首謀者17名は死刑、関連事件で3名が処刑された。反逆罪の汚名を着せられ死んだ将校等の遺族も、罪人の身内としての視線に晒され、また、憲兵隊、警察の監視下で遺体の引き取り遺骨の埋葬すらできない状況だった。
そのような情況のなかで、首謀者の一人栗原安英中尉の父 栗原勇大佐は、賢崇寺の第二十九世住職藤田俊訓師に入門、得度して、遺体の収容、遺骨の供養、遺書の保管、遺族との連絡に奔走した。また、藤田俊訓師は、憲兵隊、内務省、警察等へ、遺骨埋葬合同慰霊祭の許可、墓碑の建立を願いでたが、死罪処刑者の公の法要は禁じられ、なかなか許可は下りなかった。「死すればみな仏」と説く藤田俊訓師の信念と献身的な努力、僧籍に身を置いた栗原大佐の情熱がやがて憲兵隊や警察を動かし、藤田師が施主となり役人監視下で二十二士の合同慰霊祭が厳かに営まれたのは処刑された7月12日から久しく日を重ねた秋だった。以後、賢崇寺では毎年2月26日と7月12日に合同慰霊祭が行われている。現在の墓碑は、昭和27年7月12日第十七回忌法要に合わせて「二十二士之墓」として開眼供養されたものである。
 二・二六事件からもう73年の時間が過ぎようとしている今、いつまでも平和であって欲しいと思いますね。

2009.2.8.

 

★ 昼飯を食べながら急に真顔で息子が聞いてきた。

 「おやじ、映画を見るって ご馳走かな」
 「なんだ それ」
 「いや、映画を見ることって ご馳走というか贅沢なことかなぁ」
 「そういうことか。金銭的にか?感覚的にか?例えばね、お前の大学の学食でカレーライス食べると3、4百円かな。今、映画は大人1800円、学割1500円。とするとカレーライスが5、6杯食べられるご馳走かな。でも、たまに友だちとか家族で、ランチ3000円、ディナー10000円を食べることがご馳走だと思っている人 もいるだろうね。そんな人たちからみれば、1800円の映画は安いというだろうね」
 「金銭感覚の問題かなぁ。家は麻布十番だから10分も歩けば六本木に映画館は何軒もあるし、いつでも見に行けるけれど、ちょっと地方に住んでいたら映画は1800円じゃ見られないよね。交通費もいるし時間もかかる、食事代もかかるかもしれない。そうしたら映画はご馳走だよね」
 「そうだね。大型テレビ、ブルーレイDVDで結構いい雰囲気で映画が家庭で楽しめるけれど、劇場の音響、迫力はまた格別だし映画館でないと味わえない感覚があるね。1800円という金額がご馳走かどうかじゃなくて、映画を見に行くということ自体が時間的に、場所、地域的に行きやすいか、いろいろ考えるとけっこうご馳走かもしれないね」
 「でしょう。おやじの友だちの信州人さん、寝たきりでしょ。もし、どうしても映画が見たいっていったら、大変だよね。ディナーどころじゃなくて三つ星レストラン借り切ったような贅沢かもしれないよ」
 「じゃぁ 当分映画見に行くのやめるか」
 「そう言うことじゃなくて、行くことができることをよろこんで、見に行く」
 「10分も歩けば素晴らしい映画館が何軒もある、いつでも見に行ける、時間もある、でも、すごいご馳走だと思って、すごい贅沢をしているんだと思って、こころから感謝 しながら見るといい。途中で居眠りなんかしないでな」
 「いつだったか エンディングロール見ないで 通ぶって席を立ったら、その後で10年後の主人公なんてのがあったね。あれなんかもったいなかったね。デザート食べないで帰ったみたいで」

と まぁ親子の会話ですが、こんなことを考える時間を最近忘れていたような気がします。

2009.2.1.

 

★ 一年ぶりに学生時代のクラブの集まりに参加しました。卒業してもう45年が過ぎているのですが、しばらく話しているとみんな少しも変わっていないような不思議な雰囲気になるものですね。もうとうに還暦を過ぎ、古希を迎える先輩もいるのですが学生時代そのままに懐かしく楽しいひとときを過ごしました。

「先輩、飲み会に車で来ちゃだめですよ」
「いやぁ 悪い悪い。実はね、今の仕事はじめたときに酒を断ったんだ。」
「ほんとですか、あんなにのんべだったのによくやめられましたね」

「遅れて申し訳ない、あれっ お前 まだタバコ吸っているのか 時代に遅れるぞ」
「何?お前 タバコやめたの?意思弱いなぁ」
「おい そんな言い方もあるのか どっちが意思よわいのかな アハハ」

にぎやかな、楽しいひとときでした。わずか4年間の学生時代に同じクラブで過ごした時間の共有は決して長くはないのですが、それからの四十余年も共に歩んできたような親しみを持ち続けられるのは、あの時の4年間は今の4年間よりずっと長く密度の濃い時間だったのかもしれません。最近時間が速く感じられると、同じような思いを話しながら昔話に時を忘れて久しぶりに午前様。声が嗄れるほど大きな声で話していたのか、いや、そんなにいろいろ話す機会が、外でも家庭の中でも歳と共に少なくなったのかもしれないとちょっぴり反省。

2009.1.19.

 
「十番だより」新年号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 11 ─  七福神めぐりのこと

お正月の行事に七福神めぐりがありますね。全国には四百ヶ所余の七福神めぐりがあるそうです。七福神だから七寺社と思いきや、足利七福神のように弁財天3、大黒天2、毘沙門天2、全部で十一寺社で構成された七福神もあります。兵庫には、「宝の道七福神」という三十五寺院構成というのもあるそうです。また、一寺社に七福神全てが祀られている巡りやすい社寺もあるそうです。どれも立派に認知された七福神ですが、七寺社巡りの場合とご利益は同じでしょうか?
この十番だよりでも「港七福神めぐり」が紹介されていると思います。七福神とは七柱の福徳の神さま、大黒天、恵比寿、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋和尚という神々です。七福神の信仰は、室町時代に民間信仰として始まったようです。特に農民、漁民の信仰として成長し、現代まで育まれてきました。初期の七福神構成は必ずしも一定ではなく、現在の構成が確立したのは江戸時代になってからと言われています。七福神のうち、大黒天、毘沙門天、弁財天はインドのヒンドゥー教から仏教に、布袋和尚は仏教、寿老人、福禄寿は中国の道教、神仙観からとされ、唯一恵比寿は日本古来の神とされています。いずれにせよ仏教を中心とした中国宗教、思想の伝来と古来より日本で信じられていた俗信とが混合して出現したのが七福神信仰であるといわれています。
木彫り七福神 港七福神めぐりは、昭和八年に開設され昭和十五年まで行われていた「麻布稲荷七福神詣」がはじまりです。発足当時の神社構成は、熊野神社(恵比寿)、朝日神社(大黒天)、氷川神社(毘沙門天)、末広神社(弁財天)、久国神社(布袋尊)、桜田神社(寿老人)、天祖神社(福禄寿)、竹長神社(宝船)で、 八社すべてが稲荷神社でした。また、「港」でなく 「麻布」というのは、戦前の港区は、旧赤坂区、旧麻布区、旧芝区の3区に分かれていたからです。「麻布稲荷七福神詣」は旧麻布区内の稲荷神社で構成され、氏神(産土)様へのお参りの励行と、お稲荷様の現世利益の信仰、加えて市電(都電)とのタイアップによる地域振興を意図して始まったようです。
 「麻布稲荷七福神詣」は戦中戦後しばらく途絶えていました。また、竹長稲荷神社と末広神社は戦後合祀して十番稲荷神社となりました。竹長稲荷神社の宝船は十番稲荷神社が、末広神社の弁才天は芝公園の宝珠院が継承、朝日神社の大黒天に代わって一本松の大法寺が加わって、昭和四十一年に「港七福神めぐり」として再興されました。
昔の乗車券 港七福神巡りはどの寺社からはじめても御利益に変わりありませんが、巡拝用の地図と御朱印の専用色紙は各社寺に用意されています。御朱印代は各社寺とも300円、公式グッズとして土製人形根付けや繭玉守りもあります。参拝期間限定でやはり各300円だそうです。この公式グッズとしての人形根付けは平成14年から授与が始まったのですが、戦前の「麻布稲荷七福神詣」のころは木彫りの七福神(写真上)と宝船だったそうです。先ず竹長神社で宝船をいただき、七寺社の神様を乗せて七福神の宝船として祀ったのでしょうか。木彫りの七福神も趣があっていいですね。 (写真左 七福神巡り乗車券)
 七福神は夢まくらに宝船にのって現われると福が授かるといわれます。初夢の枕下に入れて、吉夢を見ることができるようお祈りいたします。

2009.1.8.

 

賀正         屠蘇器

今年もよろしくお願い申し上げます

仁壽生

2009.1.1.

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